zǐ yān yāo jiāo

(煙草と怪現象篇)

 

『煙草吸うんですね。知りませんでした』

 あの時、彼女に言いそびれたことがある。

 ふと無意識に広げた視界の端。回らない換気扇の隙間。炬燵。少しでも気を抜くと「それ」は現れた。

 あおい。かつて自分が愛した、エマと同じ年頃の女の子。土気色の肌で此方を無表情見つめて来た彼女は、何故か煙草を喫んでいる時に限ってたちどころに霧散した。

「霊や化かしものはね、一服するといつの間にか居なくなってるものです」

 オカルトフリークの不良生徒がそう言いながら煙草を持ち歩いていたことがあった。その時は下らない言い訳だと思いながら没収したが、後で調べてみると本当にそういう手法が存在していたようだ。しかも、割と昔から。

 あおいが出てくるようになった理由にはある程度見当がついている。十中八九、今自分の横で満足気にタブレットを弄っている猫が原因だろう。

 別に自分の前に出てくる分には構わない。今更未練がましく恨まれたって痛くも痒くもないし、どう足掻いたって向こうは死人だし、そもそも先に裏切ったのはあおいの方だし。

 でも、エマにもあおいが見えていたら?

「ねえ幽霊って信じる?」

『…何ですか藪から棒に』

 ここ最近、三村の前にあおいの霊は現われなくなっていた。しかし、だからといって彼女が本当にここから居なくなったとは言い切れない。自分が無視し続けていたから痺れを切らして、エマの方に付き纏うようになっていたらどうだろう。

「エマさん幽霊怖い?大丈夫?俺馬鹿にしないよ?」

『はい?』

 外では人を食ったような(この場合本当に食べてそうだから困る)態度を取り続けているが、エマは未成年の女の子だ。立場上そう振る舞っているだけで中身は案外脆くてもおかしくない。

 …何だか心配になって来た。

 自分が気付かなかっただけで、毎晩のようにエマの前にあおいの霊が現れていたかもしれない。エマの知らない内に憑りついて生気を吸い取っているかもしれない。それが元で知らず知らずの内に体調を崩しているかもしれない。それが原因で仕事でミスをして、命に関わるかもしれない。

『ちょっと、な、何』

 抱き寄せたエマの身体は相変わらずどこもかしこも柔らかかった。邪魔ですと言いながらばしばし肩を叩かれるが全く痛くない。エマのこれは甘噛みのようなものだ。

「エマさん…エマさん死んじゃ駄目だよ…だめだめだめ…」

 早い話、三村は酔っていた。

『い、痛っ!ちょっと…三村さん!』

 肋がみしりと鳴ったような気がしてエマは容赦なく酔っ払いの頭を引っ叩いた。三村は変な声を出して一瞬静かになったが、やがてぐずり始める。

「俺…俺今エマさんに死なれたら…死んじゃう…」

『………。』

 正に今自分が絞め殺しそうになっていたのを棚に上げて一体何を言っているんだこの酔っ払いは。

 水を飲ませ、着替えさせ、ベッドに放り込むまでエマは三村が何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 しかし、

『…んん?』

 落ち着いてからよくよく思い出してみると、アオイの霊のことを言っていたのではないかと気付いた。

 彼も見えていたのか。

 見えたらすぐにでも言って来そうなイメージがあったので意外だった。それどころか、自分を差し置いてエマの心配をするとはも更に意外だ。こんなことなら早く言い出せば良かった。

 ベランダでの一件以降、エマの前にはアオイの霊は現われていなかった。もう数か月も前になる。流石にこれ以上は出てくる気がしないし、エマ自身殆ど忘れかけていた。

『ばかな人』

 人間なんかよりも猫の方が霊感が強いのに。

 どうせ翌朝になったら忘れているだろうから、暫くは気紛れを装って少しだけ優しくしてあげよう。

 そう思いながら、猫は飼い主の懐に潜り込んで丸くなった。