(改札を出るまで篇)
「あ」とうっかり声に出して咄嗟に口に手を当てた。
結構小さい声なのに予想通り振り向いた地獄耳はこちらを視認すると愛想笑いをした。
美容師の休日は平日だ。加えて今は午前中なので、人通りは少ない。鼻の奥がつんとしそうな外の景色とは裏腹に、室内は空調が効いていて一枚脱いだ愛也は片手でコートを持って歩いていた。
当たり前のように隣を歩き始めた。大学は?と聞くと今日は授業を取っていないと返される。幾ら何でも一年目でそんな筈はない。サボりかこいつ。
『嫌ですねえ。教職員のパートナーがそんなことする訳無いじゃないですか』
それに私三回生です、と細い声が補足した。
あれっと思う。年齢と学年が一致しなかったからだ。大学に通い始めて一年目なのは間違いない。
数歩歩いてすぐに思い至る。そういやこいつは海外のどこかで既に一回大学工程を終えていたんだった。
『それにしても今日は大人しいですね』
「別に…今の時間帯にあいつが居ないのは当たり前だし、お前に突っかかって無駄な体力消費する方が嫌ってだけ。それに」
愛也はそこで一息吐いて横を見た。
「お前は俺のこと嫌いでも何でもないだろ」
言ってやった。一瞬はそう思ったが、友人の彼女は…エマはにんまりと笑う。まるで予測していたとでも言わんばかりに。
『気付いていたんですね』
「つうかそこ含めて俺はお前のこと嫌いだし」
眼の前の猫被りは、口調こそ辛辣なもの目が常にそうではないと言っている。結構不思議だった。三村に対して向けている自分の感情まで読んでいるかどうかを置いておいても、これまで自分は徹頭徹尾彼女を虚仮にしている。一回くらい嫌な顔を見せても良い筈なのに。
「なんで?」
こういう機会は中々無い。ついでなので聞いてやった。なんだか話したそうにしていたので。
『だって、私は貴方に感謝しないといけません』
「はあ?」
感謝、感謝だって?
『大体想像が付くからですよ。公務員という殻がまだ無い、下手したらあのひとが一番引く手数多だった頃、貴方は片っ端から周りの女性を食い荒らしてくれた…そのお蔭で私が今手に入れることが出来た面もあるのではないかと思っていましてね』
「……。」
『憶測だったのですがその反応は当たりですね?もっと当てましょうか。何回かは一旦付き合わせてから裏で喰って駄目にしていたでしょう。お蔭でかわいいかわいい寂しがりの疑いたがりにしてくれて…これで敵意なんて向けられましょうか。薄謝進呈どころか褒章ものですよ』
何も言わない代わりに愛也は笑った。人間、怒りが骨頂を過ぎると逆に笑えて来る一線がある。笑顔は本来威嚇なのだ。
そういえば、三村の前でだけ、彼女は表情が抜け落ちたように笑わなかった。
『何より好ましいのは、ああまで言うのに私に直接危害を加えないところです。実行可能性と意味が無いことを短期間で判断できる観察眼、仮に害したとして、その後あのひとに起こりうることを正確に予測しうる頭の切れ。何故その頭を使わない職に就いているのか不思議なくらいです』
「そりゃお前、仕事で使っちまったらこっちで使う頭が無くなるからに決まってるだろうが」
『成程』
エマは押し殺した声で笑った。
『あのひとのこと、これからも宜しくお願い致します』
それは愛也が最も目の前の女に言われたくない台詞だった。